月別アーカイブ: 2015年6月

6/12(金)19:00より、平成27年度プロフェッション委員会の
活動報告会を懇親会を兼ねて、電鉄富山駅ビルESTA4階の
炉端長 一一(いちいち)にて、行いました。
http://toyama-esta.com/

以前、映画レイルウェイで、三浦友和さんが富山で撮影して
いた折に、よく食事した人気のお店です。
以前、壮年部主催で 「建築士の日」にトイレの講義をして頂いた
横浜の高橋先生をお連れした折にも、「たいそう美味しい」、
「また富山に寄りたい」 と、感想を述べておられました。

食事も結構ボリュームがあり、飲み放題も日本酒をはじめとして、
かなりいろいろ飲めて、楽しい時間があっという間に過ぎました!!
(今回の会費は男性6,000円・女性3,000円)
活動報告会では、去年(平成26年度)を簡単に振り返りました。

   ititi

(以下、富山建築士2015より抜粋)
一昨年、壮年部は『プロフェッション委員会』として生まれ変わり、
主として建築士会員の多様な職域の人材の発掘・活用を推進する
活動を行ってきました。
設計・施工の悩みを委員同士で相談した他、新しい技術BIMの
勉強会、またジャズ鑑賞(コットンクラブ)も楽しみました。

更に下記の建築技術講習会を(2015/7/26、9/13、11/15の日程で
3回)開催しました。

「老子のタオ(道)と有機的建築について
講師:上梅澤 保博(上梅澤建築設計事務所 代表)

フランク・ロイド・ライトは建築の実在性は四枚の壁と屋根にあるのではなく、
内なる空間そのもの、そのなかで生きるための空間にあるという考え方を
直感的に理解し、感じつつ建築を作っていたと自著の中で語り、この概念
こそライトの提唱した建築思想「有機的(オーガニック)建築」(自然な生活の
くつろぎや美を生みだす、自然のための建築)の中核をなすものであると
言っております。
   落水荘
(写真はフランク・ロイド・ライトの世界的に有名な落水荘)

・「宮大工技術講習会(応用編)
講師:森 泰造 氏(伝統意匠森工房 代表)

日本の木造建築は、長い歴史が他に比類を見ない技術と建築美を
育んだと思われます。
卓越した加工と架構の技術が伝承され進化し現在に至っています。
今講座では、木造建築の歴史と共に、規矩術の基本から実践まで
分かり易く教えて頂きました。

・「茶室技術講習会(お茶の体験・見学会
講師:上野先生(職藝学院教授)

茶室について学ぶことで日本建築についての見識をさらに深める
ことを目的としました。
佐藤記念美術館において、その歴史や茶室での作法について学び、
実際にお茶を味わいました。
隣接地では移築復元工事現場碌々亭について工事を指揮した
上野先生に生のお話を賜りました。
   佐藤記念美術館

プロフェッションについての考察

(日本建築家協会 関東甲信越支部 『Bulletin』 誌、1991年 4月号より抜粋)

『広辞苑』でプロフェッショナルとひくと、専門的、職業的、プロ
とあり、アマチュアの反対語とある。
プロ棋士なども含め、これらの『プロ』という言葉が意味している
のは、ある専門技能をもって仕事に従事し、それによって金銭的
収入を得る者のことである。
専門的技能をもっていても 、それによって金銭的収入を得ることの
できない者は、「アマチュア」と呼ばれる。

研究社の『新英和大辞典』で “profession” をひいてみると、次の
ような記述がある。
1)公言、告白、宣言
2) 《宗教》 信仰告白、告白した信仰、宗門入りの誓約[宣言]
3)職業、(特に)知的[専門的]職業

プロフェッションというのは、“profess” という動詞の名詞形である。
プロフェスは、同辞典によれば、次のような意味もある。
1)公言する、明言する。
2)(宗教・神など)の信仰を公言する、(公に)信仰[告白]する、奉じる。
3)自分のものらしく主張する、装う、・・のふりをする、・・と偽る。
4) ・・の知識 [技能] があると主張する、職とする。
5)(誓願させて) 教団に入会させる、入信させる。

フランス語で「働く」は “travailler”、その名詞形である「仕事」、「労働」は
“travail” という。この「トラヴァーユ」は、日本では女性求人雑誌の名前と
なって 広く知られることとなった。
動詞の トラヴァイェは「働く」ばかりでなく、「勉強する」、「錬磨する」の
意でもある。後半生をフランスで過ごした哲学者の 森有正は、『仕事』の
意味について、次のように書いていた。

『仕事』には二つの意味がある。
一つは 生活の糧を得るため、金を稼ぐための仕事である。
「生業」といってもいい。労働時間の切り売りであり、できればやりたくない、
最小限にすませたい仕事である。
しかし、それは本当の仕事ではない。生活の資を得るための仕事の他に、
もう一つの「本当の仕事」があると氏はいう。
「本当の仕事」は何のためにするのかというと、それは「精神の内的促し」の
ためである。その仕事をしたからといって、金銭的収入が得られるとは
限らない。
けれども、やらずにいられない仕事、時間も労力もどこまでも費やして悔いの
ない仕事、ただ「精神の内的促し」のためにする仕事、それが「本当の仕事」
である、という。

画家のゴッホは、その生前にたった1枚の絵しか売れなかったという。
絵を描くことは、彼に生活の資をもたらしはしなかった。それでも彼は絵を
描き続けずにはいられなかった。「精神の内的促し」のために。
それが 彼にとっての本当の仕事であったから。

おそらく、『プロフェッション』というのは、この二つの仕事が一つに統合
されたときに成立するものなのであろう。ある仕事を生業としていながらも、
なお、その仕事をする根本的動機が「精神の内的促し」にあり、金銭的収入を
得ること以上に、その仕事の遂行に全力を尽くすあり方である。
もし そう考えられるなら、プロフェッションというのは、医者や弁護士のような
ライセンスを必要とする職業に限られるわけではあるまい。
例えば、農業に従事する人が、米や麦の作物の成長に たえず気を配り、
精魂込めて手入れをして育て上げることに、金銭を越えた喜びと心の充実とを
感じているなら、それもまたプロフェッションであろう。

本当の プロフェッショナルというのは、専門的技能によって金銭的収入を得る
ことができる ということではなく、日々の仕事に心血を注ぐということではないのか?
たとえ、その仕事によって一銭の収入も得られなくとも、「精神の内的促し」 によって
その仕事に心血を注いでいるなら、その人はプロフェッショナルである。
逆に、どれだけ高額の報酬を得ていても、「精神の内的促し」によらず、心血も
注いでいない仕事をする者は、プロフェッショナルではあるまい。

先ほどの辞典による言葉の意味調べをもう一度読み返せば、『プロフェッション』
というのは、何よりもまず、「信仰の告白」なのであった。
何故、「信仰の告白」が専門的職業を意味するようになったのか? それは、信仰の
告白をする人びとが、まずはキリスト教の布教者や聖職者であったからではないか?
古代ローマ帝国の時代、キリスト教への信仰告白をすることは罪であった。
皇帝ネロの時代、苛酷な宗教弾圧のもとでは、命をかけずに、信仰の告白をすることは
できなかった。とりわけ、信者を導く聖職者たちはそうであった。
それでも信仰を公けに告白せずにいられなかった「精神の内的促し」、それこそが
『プロフェッション』の意味である。

近く思い返せば、我が日本においても、キリスト教禁制のもとにあって「踏み絵」を
強いられたキリスト教徒たち。彼らが、その信仰をプロフェスすれば、それは死を
意味したのである。
また、宗教ばかりでなく、自由な思想や信条の開陳(プロフェッション)さえも、
時には(戦前の日本のように)国家による迫害や弾圧の対象になるのである。
そうしたプロフェッション(自己の思想や信条の公的な告白や宣言)に基づく職業が、
単なる Job や Occupation とは区別される『プロフェッション』として位置付けられて
きた。

プロフェッションの代表は聖職者であり、人権を守るために働く弁護士であり、人々の
生命を守る医師である。プロフェッションが、プロフェッションとして成立するためには、
世の中に言う『プロフェッショナル』でないことが必要である、という逆説的な事態が
おきているのである。
世の中に言う『プロフェッショナル』でないということは、その専門的技能の主目的が
金銭的利益を得ることにあるのではない、ということである。
例えば、医者が患者の生命や健康を守ることより以上に、より多くの金銭的報酬を
得るための診療点数を稼ぐことに心を奪われているなら、その医者の職業は
プロフェッションではない。
悪徳弁護士と呼ばれる人々の仕事が、プロフェッションでないことは、言うまでも
あるまい。仕事がプロフェッションの名に価するとすれば、それは当人が、「精神の
内的促し」によって、その仕事に心血を注いでいるからである。